平湯文夫の研究所だより No.106
20代後半に受け持った生徒たちとの52年ぶりのクラス会をしました。
18歳で別れたままの70歳という者が多く、みんな互いになつかしさしきり、よくぞ思いたってくれました。
「ええっ、孫までいるの?」「いますよ。6人」。70だものあたり前です。23人いた男子が6名も亡くなっているのはショックです。女子は1人も欠けてはいないが、1人になった人が幾人もいるとか。一部出入りはあったものの、3年間持ちあがりで、私の教員生活でほんとに存分にやらせてもらった生徒たちで、元気なうちにぜひ会いたいと思っていました。
まず、全員、卒業後のことを話してくれました。それぞれいい顔の70歳になっていました。
18歳で別れて以来52年間、それぞれ懸命に生き続けてきて、今、それなりに、納得のいく生き方ができたことに満ち足りているようすが、そのしっかりした話しぶりから感じられたのがなによりでした。みな、限られた時間ではとても話し足りないという感じでした。
会場は、アメリカ大統領と同じ名前の小浜温泉。1次会は、5時から9時まで、4時間たっぷり。それから畳の部屋に移って11時まで2次会。翌朝は、朝食につづけてそのまま3次会。あと雲仙へドライブして、展望台に立ったままのおしゃべりで4次会。そして、島原半島南端の母校を訪ねたあと、近くで、おいしい魚料理の昼食をいただきながらゆっくり5次会をして、みんな満ちたりて別れました。
「教えるとは希望を共に語ること」までしっかり覚えてくれていました。
私からは、10頁ほどの思い出のアルバムをつくって贈りました。その中に、右の「山本有三文学碑」の拓本の額の写真ものせました。「教室の黒板の上にかかげていたのを思い出せるかな」というと、すぐ「思い出せます」と答えてくれたのはなにより嬉しいことでした。
あわせて「『学ぶとは誠実を胸にきざむこと。教えるとは希望を共に語ること』(フランスの詩人アラゴンの詩)も覚えています」と言ってくれて、このつどいの目的は果たせた思いでした。わざわざそばに来て、「テストの成績だけで人生は決まらんよ」と言っていただいたのを忘れないで生きてきました」と、言ってくれたのまでいました。
「『若者よ』の歌詞を黒板に書いて、みんなで歌いました」。「教室で歌ったのか?」「そうです」「両隣の教室はうるさかったろうな」「そうだと思います」。ひどいことをしたものです。
この子たち(今70歳)を卒業させて移った学校は、県下一の熾烈な進学校で、点をとらせる教育に徹底していて、「希望を共に語る」ことなどなかなかでした。人生に希望がもてて、よりよく生きること、自分のミッションをしっかりもって、大学に入らなくて、人生を満ちたりて生きることなどできないはずなのに―――。
能力に応じて、存分に学べる大学に入れてやることも教育の使命ですが、その前に、まず、生きる希望を、そして、「いかに生きるか」を学ばせることこそ教育の第一の使命ではないのか。先日、ノーベル賞の大村智氏の講演をききました。会場には入れず、別会場でモニターでききました。育ててもらった祖母に、「人のためになることをしなさい」と言われつづけて、そのとおり生きてきましたという話でした。高校の学校案内のパンフなどには必ず、まず有名大学の合格者数がのっていますが、有数の有名校でも、全くのせていないところがあるどころか、一切教えてくれない学校もあるそうで、敬服させられます。
私のことを「熱血教師だった」とも言ってくれましたが、実は、家庭をかえりみない、自分の子どもと遊んだことも思い出せない父親だったことなども話しました。
52年ぶりの全員の消息を調べあげることから始めて、世話人たちの行き届いたご苦労に感謝です。ほんとに、ありがとう。みんな元気で。