研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.92


31年の歴史に幕をとじる福江子ども図書館のつどいに五島へと海を渡りました。

 私のつれあいの子ども図書館も高齢で4年前に閉館しましたが、こちらも同年輩です。
 多いときは、1100人も会員がいて、31年間、1回も閉館したことがないというのですから、りっぱです。原画展や講演会などもやって、子どもたちの読書や、お母さんたちの生きがいなど、はたしたものははかりしれないでしょう。福江市立図書館の開館も促したはずです。この図書館にかかわられた方たちが遠くからも集まって、思い出話などつきない、すてきな集いでした。街にも、学校にも、子どもが楽しむ本などなかった日本の各地で、母親たちを中心にこんな活動がいっぱいあって、今、子どもたちの読書や学校図書館が活性化したのです。
 翌日は1日、かつて、長崎や九州の図書館づくりに共に懸命になった、今は五島に住む仲間と、つきない思い出話や図書館の現状など語り合い、五島のドライブも楽しみました。



街に図書館はなく、学校の図書館には鍵が かかっていた頃、お母さんたちがつくった 家庭文庫や地域文庫には、子どもたちがあふれていました。


歳のはなしと人が亡くなった話がつづいてしまいました。

 終戦まもない東京で、中学、高校、大学と合わせると3年半、いっしょに暮らした8歳年下の甥が突然、ウクライナで亡くなりました。ほとんどヨーロッパで暮らし、言語学で学位をとるほど、ヨーロッパのことばにたけていたので、僕が動けるうちに、ゆっくり訪ねて、ヨーロッパを深く体験したい、味噌をもって行くよと、約束していたのに先にいかれてしまいました。
 数年前、アメリカの学校図書館視察ツアーから帰ったとき、帰省していたので、「アメリカのウエルカムパーティーで、乾杯役を指名されて、イクスキューズだけは英語でスピーチして乾杯をしてきたぞ」と自慢話をすると、その、「最高齢ということで」、とかなんとかのイクスキユーズを日本人は必ず言うけれど、外国にはそういう習慣はないので、通訳しても意味ないし、全く無視するわけにもいかないし、いつも困るんだよ」などと話したのが最後でした。そんな話をたくさんしたかった。
 次女の結婚式にはウクライナ人の奥さんと出席して国際色を添えてくれたりしたのに、スラブの土になってしまいました。東西冷戦下で数奇な運命にもてあそばれたことは『在外日本人』(晶文社刊)にくわしく書かれています。


学校建築専門雑誌の編集長たちとと平湯モデルの図書館をまわりました。

 もう7年ほども前、「平湯文夫の学校図書館づくり」と題して1年間連載してもらった専門雑誌の編集長と記者の取材旅行に3日間同行しました。
 もうずいぶん昔読んだ『開かれた学校』(NHKブックス)の著者、東京都立大教授(当時)長倉康彦氏にすすめられて、新聞記者から現在の雑誌を始めることになった話や長倉氏がオープンスクールの学校を次々とつくられた、そして、私もかかわった沖縄の具志川市のこと、市の建築担当のC氏のことなどで話がはずみました。
 そして、長倉氏に指導を受けられ、今、韓国で学校建築をリードするR教授を、現在勤める九大に訪ねて、ひきあわせていただきました。平湯モデル図書館のことも話し、長崎からはま近い韓国への展開の可能性も思いました。


埼玉の高校図書館を訪ね、東京の小中学校司書の方たちの集まりに参加しました。

 この夏の学図研埼玉大会のオプショナルに、昨年開館した平湯モデルの高校図書館見学を加えていただくというので、まずその高校図書館を訪ねました。私のプランの不十分だったところをいくつも補ってくださるなど、すてきな司書さんでありがたいことでした。
 次の日は、昭和の日で休日というのに、今、配置の進む東京の学校司書の方たちが、平湯モデルでできた区立中学に集まってくださったのです。そこを見ながら、午後いっぱい熱心に語り合いました。本のことにも図書館のことにもずいぶん深いものを蓄えた方たちばかりと感じました。
帰りに、中学生のとき以来の下北沢の街を散策しました。渋谷にも、新宿にも、池袋にも、六本木にもない、独得の街になっていました。次の日は、大学の同窓生たちと東京湾クルーズを楽しみました。冥土の土産づくりです。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


研究室だよりの目次へ戻る




関連するエントリー

最新のエントリー

エントリー一覧へ >