研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.87


昔教えた高校の創立50周年記念で国境なき医師団日本代表の卒業生が講演しました。

 ソルボンヌなどで学んだ卒業生が、ウイーンフィルのアンサンブルを招いてくれて在校生オーケストラ部と協演をしたり、国境なき医師団日本代表が講演したりで在校生を感動させました。同窓会による周到な計画準備はみごとでした。将来を約束された仕事をなげうって参加し、ソマリアなどで生命がけの仕事をつづけている実体験のスライドトークは、後輩たちへの最高の贈り物でした。教えたというだけで誇らしい思いもしました。
 帰りの電車の中で、進学校の校長を務めたあと大手予備校の校長を務めている元同僚の先生が、私の隣の席が空くのを待って移ってこられました。そして、ひたすら医学部などを目指す予備校の生徒や父母にこの話をきかせたかったと熱っぽく話されました。私は、「今日の卒業生の話もりっぱでしたが、予備校の校長先生である先生のこのお話もすばらしい」と言いました。


笑われるでしょうが、ほんとに私は、年より若く見えるのでしょうか。

 年をとった人に「若い」と言うのは挨拶ですが、同窓会などつづいて、すっかり貫禄のついた教え子たちから、「65歳あたりでストップしてる」などいわれることがつづきました。
 「偉くならなかったからよ。年相応の貫禄もつかず恥ずかしいよ」などと受け答えしながら、「ほんとにそう見えるのだろうか?」などと考えたりしています。30代になった頃、責任ある(?)立場につくと、自分の信じるままに生きられないことを知りました。世の中には納得できないことと、その現状の中で平穏に生きようとする人が多すぎます。大げさですが、そこを少しでも切り拓こうと非力でも挑みつづけた一生だったように思います。
 定年退職のお別れの会を全学の教職員でしてもらったとき、長く身近かで働いてくれた図書館員の1人に、「定年だというのに、どうしてそんなにさばさばしていられるのですか」と言われて、あらためて、そう見えるのかと思ったものでした。49歳で、家督をすべて譲って、「これからは自分で自分を生きる」と天文学や測量学を学んで日本地図を完成させた伊能忠敬の生き方を理想として、もったいないようなお誘いをいくつも丁重にお断りして、いよいよ「自分で生きられる」と思っていたのですから、ほんとにさばさばとしたものでした。
 自分の思いのまま妥協することなく、理想を追い求めつづけるのが若さであるなら、今もそのとおりに生きているから、若く(幼く)見えるのでしょうか。ウン十歳になった人は、それまで謹んでいたことまで言ってしまうもののようですから、この話も笑ってきいていただきましょう。


月末には鹿児島へ、小中学校司書の方たちの自主研修会に招かれました。

 図書館の入ったところの展示台にも。高校生たちに話しかけると、とてもほこらしげでした。

 まず1日目は、保育園、幼稚園の「絵本の部屋」づくりなど。
 2日目は、今回のノーベル賞受賞者赤崎博士の出身校、甲南高校図書館で、これまでとちがい、高校司書だけでなく、初めて、小中の司書の方たちも招いての自主研修会です。
 『3千円から3万円でできる学校図書館の手づくり改修法』の中に報告していただいている甲南高校や錦江湾高校のすばらしい実践を、小中学校の司書の方たちにも知っていただこうという趣旨のこころみです。
 こんな、高校から小中学校へ呼びかけての自主研修会が、できてしまうというところがほんとにすばらしい。休日を使っての自主研修会こそほんとに本物の研修会だと思います。
 次は、小中学校に会場を移してやることになりそうです。鹿児島は、全県ほとんどの小中学校に、ずっと学校司書がおかれていたところです。


鹿児島の会場甲南高校の目抜き通りにある校門には、ノーベル賞受賞の垂れ幕がかかげてありました。

図書館の会場には、40名の定員に49名が溢れて、終始全員熱中しきっての3時間30分でした。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


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