平湯文夫の研究所だより No.81
2月の義母につづき、義姉がなくなりました。倒れて2年、97歳でした。
中学3年で、今では考えられない貧しさと食糧難の東京で、子ども3人いる中にいきなり押しかけた私を、分けへだてなど全く感じさせず、一度もひもじい思いもさせず、中、高、大学合わせると4年近く、預かってくれたことは信じられないほどです。8人兄弟の長男だった兄は、つづく弟妹たちの内5人を、私ほど長いのはなかったようですが、それぞれ預かってくれたりしたようです。私にも、預かったり、世話をしてあげたがいいときが、2,3度ありましたが、自分のことで精いっぱいでなにもできなかったことを思うとほんとに頭がさがります。
倒れたあと、意識が回復したときまで、「お兄さんとも、あなたたちとも親しくさせていただいてほんとに幸せでした」と言いつづけました。意識のある最後に見舞ったとき、「夢見たい」をくりかえしてくれたことにほっとしました。
そして私も、とうとうウン十歳の大台にのりました。
自分でなかなか実感としてとらえられないふしぎな境地です。明らかに弱ってはいくものの、なんとか元気でいられることにまず感謝です。今、懸命なことは二つ、図書館施設を生きかえらせる「平湯モデル」のノウハウとスキルを、協力してもらっている、大中小の3社に、元気なうちにせめて30%でも伝授したいこと。子や孫のような人たちが、よくいっしょにやってくれると感謝です。もう一つは、肉親の中で長く生き残れた者として、先になくなった者たちへの気持ちだけでもの供養と、後につづく者たちへささやかでも記録を残したいということ。みなそれぞれに懸命に生きたことを、そして、戦争で生きられなかった無念を思いやってやることです。図書館の郷土コーナーにあたるものです。それにしては、あまりに大きすぎる残務です。
若いときに変わらず、毎日デスクワークをこなし、各地へ出かけて、人にも仕事にも新しい出会いがあり充実していますが、古い大切な友人知人にほとんど会えなくなったことが淋しく、仕事もしにくくなって困っています。リムジンでも空港の待合室でも電車でも研究大会などでも、ほんとに会わなくなりました。新しい図書館のうごきにもとり残されてしまいました。
一方、古いことを、殊に学校図書館についてよく知っていることでは、まさに絶滅危惧種でしょう。こんな大きな変わり目に、その歴史をほとんど知らないままその仕事につき、また行政としてかかわっている人たちのことがとても気になります。賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶといいますが、体験もない人たちが歴史に学ぶこともせず、ただ試行錯誤というのはほんとにもったいないことです。
そういえば、朝ドラの「花子とアン」が好評らしいだけに、農家のうすぎたなさと藁打ちや草履つくりの手つきなど見ていられません。私の知る日本の昔の農家は、貧しくてもそれなりに小ぎれいで、手つきは美しかった。幕末に訪れた西洋人が感心したほどです。それで日本を植民地にできなかったとも言われています。甲府の人たちにも失礼です。私も草履などたくさんつくったので教えてあげたくなります。昔を知る人が、演劇人にも放送局にもいなくなってしまったのでしょう。長生きしすぎたようです。まわりにあまり迷惑や不快な思いをさせず、もうしばらく元気で、思い残すことを少なくできたらいいのですが。