研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.71


インドネシアの旅は、兄の供養と図書館めぐり、そして観光も遊びも。(その3)

 三浦雄一郎さんのエベレスト登頂成功の日、79歳で、仏教の世界最大遺跡ボロブドールの頂上を地元の中学生たちときわめました。あまり遠くないところにある、イスラムの世界で最も美しい遺跡プランバナンも訪ねました。共に火山の噴火で長く埋もれていたらしいものを200年ほど前に発見、復元されたものです。


 引率されてきていた中学生(だったかな)も、屈託がなく、みんな喜んで写真におさまりました。こんな見学などで、アイデンティティーをつくりあげていくのでしょう。公共 図書館にも、学校図書館にも、「郷土のコーナ ー」はしっかりつくるべきだと思います。


 中学生(だったかな)たちも、カメラを向けると屈託なく写真におさまりました。


長崎の出島へやってくるオランダ船が必ず寄港したジャカルタ港はぜひ見たかった。

 そのジャカルタ港を、運河のそそぐ、我々ではとうてい行けそうもないところまで、ガイドに案内してもらいましたが、長崎へつづく開けた海はついに見ることができませんでした。港は、200トンもあろう木造の独特な形の漁船がびっしりでふさがれていたのです。高台に登れば見えると思ったのですが、時間切れ。そこは、もう言いようもなくすさまじいものでした。
 都市高速一本もない、高層ビル以外、街路樹におおわれたジャカルタの街はすてきでした。太陽光は強烈ですが、直接あたることは少なかった。しかし、東京と同じ1300万の人口に、地下鉄の一本も、山手線も中央線も都市高速もない交通渋滞はすさまじいものでした。


「会いたかったあ♪、会いたかったあ♪」はインドネシアにも。

 数年前、ボストン市立図書館の分館で図書館員たちと懸命に英語で話したあと別れをつげると、「ジャアネ」とこられて、拍子抜けしたことがありました。今度は、初めて入ったレストランで「シツレイシマス」とこられたのです。インドネシアは日本からのビジネスマンが多く、日本語の基礎的な接客用語は習得させられていることもだんだん分かってきたのですが、虚をつかれた思いでした。そこで「レッツ トーク トギャザー イン ジャパニーズ」と言うと、真顔になって、奥へ行って店長さんらしい人を呼んできました。私は「アイ ウオンツ トウトーク ウイズ ユウ」というと、たちまち切りかわって、「会いたかったー♪。会いたかったー♪」ときました。私は、「ミートウー」といって立ちあがり、ハグの格好をすると、笑って身をひきました。


 40年近く前、初めてアメリカを訪ねたときの新鮮で強い印象の一つは、女性が胸を張って闊歩していることでした。今回のインドネシアの印象は、12日間、メダン、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、バリ島をとおして、子どもから年寄りまで、「屈託がない」ということでした。荒れた学校、不登校などあるのだろうかと思いました。(たずねそびれたのが残念)。仏教国タイは、ほほえみの国といわれ、国王はじめ合掌しているのを見ますが、イスラム教がほとんどといわれるスマトラ島、ジャワ島でも、バリヒンズーのバリ島でも、ほほえみと合掌は同じで、タクシーなどでも悪質なものには一度も会いませんでした。日本は、子どもから大人まで屈託がありすぎると、つくづく思いました。本土の人たちのいう、「本音と建て前」というのがどうしても分からなかったといっていた沖縄も、少しずつ本土並みに近づき、東南アジアからも、経済成長にともなって、やがては、屈託のなさとほほえみは消えていくのでしょうか。
 これ以上書きつづけたら本一冊になりそうなので、インドネシアの話はこのあたりで。
 この旅を思い立ってくださったN氏はあいにくお父上の容態が急変して加われませんでした。U氏の3年に及ぶ周到な準備と案内はみごとでした。英語が大抵は通じましたが、インドネシア語だとまた全くちがいます。おかげでほんとに中味の濃い楽しい旅ができました。感謝。
 今、日本語科のある大学に日本語の本を送る準備にとりかかっています。


 スマトラ島中部パダンの料理はおもしろかった。オーダー無用。テーブルにかけると、写真のように勝手に何10皿も積みあげていく。食べたいものだけ選んで食べたら、その分だけ請求されます。


 バリ島の宿は、椰子と合鴨農法のライステラスに囲まれた瀟洒なリゾートホテルでした。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


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