研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.069


千葉県国府台女子学院の落成式に参加しました。

 小中高合わせて2000名をこえる大きな学校の2期にわたる全面改築工事の落成式で盛大でした。理事長(学院長)さんが、式辞で、図書館中心の改築でしたが、その図書館がすばらしいものにできましたと話され、続く祝辞でも同じことを話してくださった方がありました。
 体育館いっぱいの懇親会で、理事長さんにご挨拶しようとしましたが、ずっととり囲まれておられて、やっと近づくことができました。2,3度会ったことはありますが、覚えてはおられないだろうと、「図書館をお手つだいしました長崎の平湯です」と名乗ろうと、顔が合って「図書館」と言いかけると同時に、「ああ、平湯先生。今、みなさんに、図書館のことなら、長崎の平湯先生に頼まれたらいいと話していたところです」とおっしゃって、とりまいておられる方々に紹介していただきました。ありがたいことです。


 懇親会のあと、司書教諭と司書の方たちに、不具合などおききし、また、私のほうからも、こう使ってほしいということなどきいていただきました。小学校図書館では、司書教諭の先生が待ちわびていたようにしておられて、子どもたちが喜んで利用している様子を次々に話しつづけてくださるので、次の予定に大きくくいこむほどきき入ってしまいました。


 小学部図書館。子どもがいなかったのは残念でしたが、2階の廊下から館内が見えるというのは初めての試みです。


太平洋戦争で2人の兄が帰らなかったインドネシアを訪ねました。(その1)

 30代の頃から訪ねたいと思いつづけていたインドネシアへ、インドネシア語に通じて、既に5回も訪ねたことのある方もいっしょに、インドネシアにご案内しましょうという方が現れて、ありがたく従うことになりました。
 太平洋戦争は、アメリカに石油をたたれることで始まりました。あの真珠湾攻撃につづいて、石油資源を求めて、マレー半島、インドネシアに迫りました。石油基地であるスマトラ島北部のメダンが陥ちると、商社マンであった兄は軍属として派遣されました。両親に別れに一夜帰ってきた兄のことを、小学3年だった私ははっきり覚えています。メダンからもらった手紙も手許にあります。その兄は、敗戦で収容された所から脱走したことを、郷里の両親のもとに伝えにきてくださった人があり、そのときのことも覚えています。一人、馬来語(現在のインドネシア語)に達者だったためだったようです。インドネシアでは、太平洋戦争後、再支配しようとしたオランダとの間に激しい独立戦争があり、日本軍は、それに大きな役割を果たしました。


 夜おそくメダン空港につくと、なんと現地で日本国を代表する偉い方A氏が出迎えてくださったのです。恐縮至極。翌日は、たまたま日曜ということもあり、A氏は、一日中、兄がいたはずのところを案内し、知るべを探してくださるというのです。なんと独立戦争で大きな役割を果たした日本人将軍の2世同士で結婚なさったというご夫妻まで伴ってきてくださいました。
 まず、メダンから北へ車で2時間のパングカランブランダンというところの「北スマトラ燃料工廠」跡へ。ここから南のメダン港へ鉄道で運んでいたということです。
 次は、メダンに帰り、りっぱな日本人墓地を詣でて、花を供えました。そして、むしろ、兄の仕事場はここだったにちがいないという、メダンから高速道で20分の、石油積み出しのベラワン港へ行き、戦中から残る建物なども確かめました。
 夜は、戦前からの由緒ある、兄もきっと利用したにちがいないという、レストランで夕食を共にし、一夜語り合いました。インドネシア勤務合計16年、インドネシア語はもちろん、インドネシアを愛し万般に通じたA氏と日本人を父にもち日本とインドネシアをこよなく愛するご夫妻との話はふしぎな境地の中のすてきな一夜でした。


 兄を知る人はいないのか、心あたりをどこまでも探してくださいました。


 かつての石油積出港埠頭には客船が入っ てきました。


 インドネシア語、英語、日本語で話は尽きなかった。このレストランの前には、私にくれた手紙を出したにちがいない中央郵便局が今も残り、メダン駅もありました。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


研究室だよりの目次へ戻る




関連するエントリー

最新のエントリー

エントリー一覧へ >