研究所だより

平湯文夫の研究所だより No.019


『私たちはこんなことをしてきた』の編集にとりかかりました。

この「研究所だより」だけは毎月しっかり更新していこうと心にきめていたのに、とうとう12月と1月の合併号になってしまいました。

◎これまでずっとためこんできた膨大(?)な資料の始末にかからなければならない年になって「資料による九州沖縄公共図書館づくりと学校図書館を生きかえらせる運動史」というサブタイトルを付けた『私たちはこんなことをしてきた』の編集出版を考えました。
 私の手元の資料を元にしますので、私が書いたものや撮った写真などが中心とはなりますが、いっしょに協力しあってきた九州沖縄の仲間たちや、励ましてくれた全国の図書館や文庫にかかわる人たちや、ともに学びあった学生、卒業生たちの文章などもできるだけとりいれたいと思っています。活字になったものは雑誌や新聞、文書などに組まれたまま、手紙など、ご迷惑のかからぬ範囲で直筆のまま、元の姿で切り貼りして、なんとか『図書館年鑑』のイメージ、ボリューム以内にしぼりこみ、3年ぐらいで一本に仕上げたいと考えています。
 その作業の手始めだけを暮れと正月にと思ったのが、はまりこんでしまいました。自分が生きてきたあとをたどるのがこんなに楽しく夢中になれるとは驚きでした。なにかに「成る」ことに全く関心がなく、ただ「為す」ことだけに懸命に生きてきた自分をあらためて思い知りました。
 そして、期限のきた仕事など気にしながら、憑かれたように作業をつづけるうちに、喉がおかしくなり、異状が昂じて、1月の半ば、ついに熱発、古い資料の埃のせいと気づきました。
 暮れから1月の半ばまでこの作業にはまり、やられた気管支の修復に後半を費やしてしまって、予定の仕事が大幅に狂い、ご迷惑をかけることにもなりました。そして、埃のこわさと我が身の衰えを知りました。
 この半世紀ばかりは、図書館に関心をもつ人たちにとって、ひどい公共図書館と学校図書館の状況をなんとかしなければと思いつづけ、あるいは闘いつづけた半世紀だったはずです。そして今、なかなかと思われた学校図書館までもが、近年確かに動きはじめたと思わせるものがあります。私が社会的に生きてきた半世紀もちょうどそれに重なります。そして、私たちの蟷螂の斧も、多少はそのことに役立ったはずと思わせるものがあります。「為す」ために生きてきてよかったと思うのです。
 この、人の世にもっとも大切な、民主主義の土台となる図書館をつくりあげる仕事の記録が無意味なはずはないし、読んでくれる人がいないはずがないと思うのです。
 問題は、まだなかなかひまになりそうもない私に、目標の3年ぐらいで、5・6百もの編集と版下づくりがはたして順調にできるかということです。そして健康も。

◎1月末には、今いちという体調の中、五島へ出かけました。1日目の午前中は福江小学校の図書室へ。図書係の先生3名にお母さんたちも集まってくださって、学校図書館を魅力的にする話を。
 午後は、五島市の全小中学校の図書係の先生方の研修会。図書館研究部会会長の校長先生をはじめ、ひと頃前までは見られなかった、先生方の図書館への熱心さに嬉しくなりました。
 研修会終了後、2年ほど前、一度完成させながら合併待ちとなっていた五島市の新図書館の建設計画についても、再度協力願いたい旨の話もありました。
 翌朝、上五島へ。合併で新上五島町となった若松地区の教委のHさんに奈良尾港に迎えていただき、以前改修を手伝った奈良尾図書館へ久しぶり。そして、若松地区の分館として改修するという旧若松議会の議場へ。目前に若松湾が広がるすばらしい部屋。やはり上五島地区分館を整備中の司書のYさんもいっしょ。
 午後からは、若松中央小学校で、全教職員に父母も加わって読書と図書館の研修会。
 終って、Hさんと奈良尾図書館のTさんと3人で五島の魚をいただきながら五島の図書館づくりについて楽しく語り合う。
 充実した2日間で、上下全五島の公共図書館も学校図書館も、いい線で発展しそうで嬉しい。


この記事は、2003年7月1日から平湯文夫先生が自身のホームページ「図書館づくりと子どもの本の研究所」に掲載した研究所だよりを再編集して転載したものです。


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